<大江戸残照トリップ 田中優子さんと歩く>(9)大島愛宕神社(江東区) 風流を枕に一茶の世界

2024-09-15 HaiPress

小林一茶の句碑について田中優子さんに説明する大島愛宕神社の浅見昌弘宮司(左)=いずれも江東区で

江戸の俳人として松尾芭蕉と並び称されるのが、小林一茶。風流を枕に旅に明け暮れた漂泊の人だった。そんな一茶が珍しく腰を落ち着けたのが、大島愛宕神社(江東区)。さて、どんなところだろうか。

都営新宿線の西大島駅から徒歩7分。大島愛宕神社は町工場の跡地にマンションや住宅が立ち並んだ町の一角にある。鳥居の横に石碑があり、一茶の代表句「雀(すずめ)の子そこのけそこのけ御馬が通る」が刻まれていた。

宮司の浅見昌弘さん(67)によると、神社の周りは太平洋戦争の空襲で丸焼けになった。社殿も焼失し、境内に戦前からあった一茶の句碑もがれきに埋もれた。

埋もれていた石を1990年に掘り起こし、再建したのが現在の句碑。つまり一茶と愛宕神社の縁は戦前からよく知られていたということだ。

一茶が放浪の末、ここにたどり着いたのは1803(享和3)年、40歳のとき。神社の片隅にあった祭礼用道具小屋に住み着き、3年あまりを過ごした。

一茶の句碑がある大島愛宕神社

「一つなくは親なし鳥よ秋の暮(くれ)」「井戸にさへ錠のかかりし寒さかな」などの句がここで生まれた。

浅見さんによると、江戸時代には、神社は、現在地の西を流れる横十間川の畔(ほとり)にあったのではないかという。川辺には油問屋などが並び、愛宕神社は火伏せの神だった。

江戸の中心部から離れた草深い土地だったろう。あばら家で、鳥や虫を相手に一人で暮らした俳人の姿を想像してみる。華やかさとは無縁な一茶の世界がそこにある。

◆俳諧師のリアルな姿田中優子

小林一茶の「父の終焉(しゅうえん)日記」はとても好きな作品だ。15歳で信濃柏原の家を出た経緯や、継母とその息子のこと、実父の逝去までを書いた散文である。一茶は江戸で俳諧師になったが柏原の印象が強く、下総や上方など常に旅をしていた。

そこで江戸にゆかりの地があることを想像したことがなかったのだが、江東区大島に一茶が暮らしていたことを記念する碑があると聞いて訪ねた。愛宕神社である。神社の片隅の道具小屋に住んでいたという。

藤沢周平の「一茶」は、江戸に出た一茶が米屋、筆屋、左官、根付(ねつけ)師、油屋を転々とし、博打(ばくち)同然の雑俳に手を出しながら俳諧師になっていく生々しい傑作だ。旅で留守中の二六庵竹阿の家に暮らし、弟子と名乗るのだが実は一度も会ったことはない。旅から帰るといつの間にか他人が暮らしている。そこで愛宕神社に落ち着き、さらにその後本所相生町の裏長屋に移る。

旅と言っても旦那衆への挨拶(あいさつ)回り、テリトリーとパトロンの確保など、芸人のような生活だ。晩年は家を譲った弟から土地を半分取り上げてそこに暮らす。藤沢周平は決して立派な文学者扱いせず、必死に生きる俳諧師の姿をリアルに書いた。愛宕神社で私は、その姿を見たように思った。

深川の芭蕉庵跡にも寄った。芭蕉もきっと、地をはいずりまわる生活をしていたに違いない。それでも俳諧から離れない。俳諧はそれほど、文学としての魅力に満ちた世界だったのだ。(江戸学者・法政大前総長)

◆ひとあしのばして芭蕉しのぶ銅像や記念館も

芭蕉庵史跡展望庭園で芭蕉像を見る田中優子さん。後方は隅田川の清洲橋

松尾芭蕉に関する資料を展示している江東区芭蕉記念館

同じ江東区に芭蕉稲荷神社があり、俳聖が住んだ「深川の草庵(そうあん)」の跡とされている。

隣接する芭蕉庵史跡展望庭園には、隅田川を見下ろす芭蕉の銅像がある。電動式で、夕方になると向きを変える趣向が面白い。

近くには江東区芭蕉記念館もあり、芭蕉と一茶ら江東区ゆかりの俳人について学べる。研修室では頻繁に句会も開催されている。

文・坂本充孝/写真・田中健

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